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束(トールキン)関連記事
「トールキン、軋轢の指輪 (Tolkien, l'anneau de la discorde)」試訳 [1] [2] [3]
映画『The Hobbit』がなんだかんだ不安でもあるいくつかの理由を考えてみた [其の1] [其の2] [其の3]

Mon signet pour la musique (おんがくのしおり)
[1]【お題】トラディショナルソングには回帰性がある。
[2]【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」


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L'atelier de la reine Spica
"スピカ女王"と2人で活動中の創作ユニット"ラトリエ・ドゥ・ラ・レーヌ・スピカ"の作品リスト。

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フランスの新聞 Le Monde 掲載の『ユーリ!!! on ICE』記事についての雑考

 フランスの日刊紙Le Mondeに7月9日掲載された « Yuri on Ice », l’animé de patinage artistique queer au succès inattendu (『ユーリ!!! on ICE』、思いがけない成功をおさめたクィアなフィギュアスケートアニメ) という記事に関する考察のTwitter投稿が50ツイートを超える 長大なツイートスレッド となってしまったため、ブログの記事としてまとめておくことにしました。

Le Mondeの記事(フランス語)は、上の記事タイトルに貼ったリンク先で読むことができます。

記事全体のアウトラインは、abyssinさん(@abyssin2011)が このツイートスレッド でまとめておられます。
 ちなみに、abyssinさんは私とは違った角度からこの記事を捉えておられるので、私の考察と合わせて こちらのツイートスレッド も是非お読みください。

Kayさん(@_kay_0_0)によるモーメントの内容を整理してみた このツイートスレッド もまた、以下の考察に関連した補足とも発展とも位置付けられるはず。



 初読時Le Mondeのこの記事には、全体通して作品に対して好意的であり特に問題ないような印象を覚える反面、何か引っかかるものがありました。その後、原案の久保ミツロウ氏による不安の吐露在仏のファンでおられるパールさんが表されていた違和感などを目にし、また、ちょうど同じ時期、『ユーリ!!! on ICE』における、とりわけ勇利とヴィクトルの関係性についてのカノンとヘッドカノン*1の線引き問題にも触れたことで、それらを踏まえつつ記事を再読してみて、自分の感じたこと考えたことを改めて文章化しておきたいと一念発起してしまったというわけです。

 それでは以下、当該ツイートスレッドを一部改稿しての再録です。Twitterの仕様に合わせた略語や言葉遣いを改め、いくつか注を加えました。





 勇利とヴィクトルの関係を敢えてブラックボックス化して視聴者の解釈に委ねるという方針を、相変わらず一貫させている制作者へのインタヴューを含む記事において、多数ファンによる受容のあり方を根拠に、クィア*2というそうでなくとも繊細で、且つこの作品に関しては一面的な要素をタイトルに入れた点については、判断が分かれるところだろう。
 昨今の時勢もあってか、海外での『ユーリ!!! on ICE』(以下『yoi』) 受容がクィア的評価と切り離せなくなっているのは、制作側も重々承知のことなのだろうとは思う。
 実際、英米圏のメディアにそういった切り口で『yoi』を取り上げたところが既にあるし(アニメないしはクィアに関する専門メディアだったけれども)、そもそも海外配信元のChrunchrollはそう見られることを積極的にプロモーションに生かしている節がある(第7滑走の例のシーンを"KISS"と認定してしまっているなど*3)。
 「同性愛が描かれているアニメ」として紹介されることは、それが腐女子云々とオタクの内輪ネタ的な揶揄を招きかねない日本とは異なり、とりわけ欧米ならば、いっそ人権問題に対するスタイリッシュな挑戦といったニュアンスの好意的な評価さえ伴うようで、対外的には十分セールスポイントのひとつに数えられるのかもしれない。
 但し、この手の煽りは『yoi』未見の人に先入観を植え付けてしまうという点で、久保氏の不安ももっともなことと思う。Le Mondeというのがフランスで最も読まれている有料日刊紙であって、これまで紹介されたメディアとは訴求力も訴求対象も格段に違うだろうことを鑑みれば、尚更のことだ。



 Le Mondeのこの記事は、全体として決して悪くはないものの、少なくとも私にとって、初読時から何やら引っかかりを覚えてモヤモヤの糸口ともなっていたのが、構成のバランスの悪さだった。
 すなわち、18パラグラフ中、冒頭3パラグラフで配信元Crunchyroll責任者のコメントやストーリーを紹介した後、前半7パラグラフがファンへの取材(+ファンダム動向の報告)に当てられ、前半から後半へのつなぎ部分に久保氏へのインタヴューが2パラグラフ置かれ、再びCrunchyroll責任者の発言などを1パラグラフ挟んで、山本監督へのインタヴューが2パラグラフ、それからフィギュアスケーターらの反応について2パラグラフ、最後に続編情報に短く1パラグラフが割かれている。(ちなみに使用されている画像はというと、第6滑走の額ゴチンのところ、ファンのヴィクトルコスプレ姿、メドベージェワ選手の勇利コスプレインスタ画像の3枚。)
 Japan Expo 2017で来仏中の制作者に直接インタヴューを敢行しておきながら、その内容はたった4パラグラフのみで、ほぼ倍量をファンによる見解に、それも制作者の発言に先行させて費やすという、量的な配分にまずもってモヤモヤする。

 内容的には、タイトルに準じて『yoi』に読めるクィア的表象、要するに勇利とヴィクトルの同性愛について終始するファンの語りのすぐ後、こうしたファンによる受容の焦点(勇利とヴィクトルのクィアな関係性)は制作者による創作の焦点(フィギュアスケート)ではないことを明言する久保氏の発言から、フィギュアスケートを描くアニメとしての前代未聞の挑戦、表現上の試行錯誤や基本方針についての山本監督の話につなげるという、その流れは巧いとさえ言っていい。…いいのだけれども、久保氏の話の扱い方がなかなか曲者で、またなんともモヤモヤするのだ。
 記者は、「このシリーズの2人の女性作者は、(勇利とヴィクトルの関係に)こうした曖昧さを漂わせておくことに意地の悪い喜びを感じている」と前振りしてから、久保氏が「彼らの関係は言葉で表せるような何かではない」と断言するのに対してなおも「それがフィギュアスケートありきでのみ存在しうるにせよ、《ラヴストーリー》を久保氏は連想させているにもかかわらず」とかぶせてくる。この久保氏の発言引用を引き取るジェロンディフの節 tout en évoquant … は明らかに対立を意味しているし「…連想させているにもかかわらず」, qui … 以降を英語で言うところの関係代名詞の非制限用法、譲歩的な補足情報と理解すれば「…にせよ」、先行詞 « histoire d'amour(=ラヴストーリー) » に付けられたカギカッコからは、ある種の皮肉、つまり「久保さんは認めないけどファンも記者の私もそう思うところの」とでも言いたげな調子を汲み取りたくもなる。
 ちなみに、この「histoire d'amour (ラヴストーリー)」というのは、仏語字幕だと第4滑走でヴィクトルに勇利がキレるきっかけになった「例えば思い出してみるんだ、恋人に愛されたことを」の箇所で使われている言葉でもある(字幕を直訳すると「例えば君のラヴストーリーについて思い浮かべてみるんだ」となる)。この記者がそこまで『yoi』を観倒した上で含みをもたせてるとはいくらなんでも思わないけれど、記事中の「ラヴストーリー(恋物語)」もまた「ラヴアフェア(恋愛沙汰)」に近い意味で用いられていたっておかしくはないわけだ。
 さて、続く段落において、記者は久保氏の「執筆している間、ひとりの男性スケーターと出会い、愛によってそんなにも遠くまで行く(=高い水準に達する)ことはできるのかどうか尋ねると、できると答えが返ってきた。それで私は歯止めを外した」という発言を引いてくる。直前の段落で久保氏の発言を裏読みするように方向付けられてしまった上では、このスケーターの性別が男性であること(仏語の職業を表す名詞は形から性別が分かる)にことさら意味があるように思えるし、特定されてはいない(日本にありがちなスポーツドキュメンタリーならさしずめ家族(夫婦・親子)愛という線で番組作りそうな)愛も恋愛としての愛に思えるし、そもそもシナリオ執筆にあたって自らに歯止めをかける、自重するほどの何かがあってこのやり取りを機に解放されたというなら、その何かは同性間のラヴストーリーを描くタブー意識みたいなものだったに違いないと思えてしまう。(この逸話、もう少し詳しく脈絡と真意のほどを知りたいところなのだが…*4)このうえ記者が「でも、彼女は以下のようにはっきり言う」とさらに逆説でつないで、「このアニメの主たる目的は、出来る限りフィギュアスケートを知らしめることで(…)この登場人物2人の間に起きていることをどう解釈すべきか私たちが言うことではない」との久保氏発言を引用するものだから、先の逸話との矛盾が否応なく際立ってしまう。「愛が『yoi』のシナリオを突き抜けさせたと言ってるのに『yoi』のメインテーマはフィギュアスケートだと言う」…ここだけを読めばそうも感じられる構成に、悪意では決してないのだろうけれども、見ようによっては煮え切らないと言えなくもない制作者のスタンスに向けられた一抹の皮肉味はあるのかもしれない。
 解釈を視聴者に委ねたいという制作者の創造上のスタンスをそのまま伝えるよりも、そうやって委ねられて自分と多数のファンが支持しているところの解釈、受容上の多数派の正統性(正当性?)を裏取ることに重きを置いているようにもうかがえる、この記者の姿勢にこそ、私はモヤモヤするんだろうか。



 ある作品世界の裾野としてネット上のファンフィクションの存在にまで言及するのを、まさにLe Mondeの記事で以前目にしたこともあって*5、ファンダムの動静を統計的に利用したり、ファンにインタヴューしたりすること自体をなにもタブー視したいわけじゃない。
 それでも、この『yoi』に関する記事が久保氏へのインタヴューにも先んじて立てていると思しきロジックは、冷静に考えたらいささか強引とも乱暴とも見えるものだ。『yoi』ファンダムの急拡大・勇利とヴィクトルというカップリングへの強力な支持・その大多数が勇利とヴィクトルの関係を扱うファンフィクションの大量投稿、これらを裏付けとして、『yoi』は勇利とヴィクトルのラヴストーリー(少なくともその側面を持つ物語)として受容されている、だから『yoi』は同性愛が描かれている作品である、と持っていくのは、解釈の正解を多数決しているようでもあり、また、一次創作と二次創作の線引きを見失っているようでもある。
 「ロマンスものではなく、勇利の再起もの」であることを評価するファンの「日本人男性とロシア人男性のゲイロマンスって現状とりわけロシア側ではとっても大胆不敵」発言も併記してしまうのには、現実準拠の恐ロシア設定はファンフィクション十八番のヘッドカノンだ混ぜるな危険と突っ込みたくもなる。(自らもファンフィクションを執筆しているこのファンは、自身のヘッドカノンをはっきり認識していることがその作品あとがきから見て取れるので、これはむしろ記事の構成上の問題だ。)
 「西洋人はキスもセックスも"愛してる"の言葉も出てこないロマンスなんてないと思い込んでいるせいで、愛を表現する別の方法を受け入れようとしない」と言うファンが、「名前はないけどあえて愛と呼ぶことにし」た(とまで慎重にあらゆる可能性を排除しないよう表現された)「感情」は「同性間の恋愛」であることを前提に話を進める、その矛盾を諌めたくもなる。
 同じファンによる、マッチョ映画のはずがフェミニズム映画として受容された『マッドマックス:怒りのデス・ロード』のケースになぞらえた、メジャーなスポーツアニメに同性カップルが描かれる『yoi』の重要性の指摘には、妙な説得力を感じる反面、ジョージ・ミラー監督自身がそれありきではなかったもののフェミニズムはストーリー上の必然だったと認めている*6前者に、制作者が同性愛と目されている要素に敢えて言質を与えていない(ストーリー上の必然というならそれはむしろ全部ひっくるめた「僕らが愛と呼ぶ氷の上のすべて」なんだよな)後者を重ね合わせることの危うさについて、釘をさしておきたくもある。

 作品(カノン)の解釈や考察、さらにはファンフィクションないし二次創作といったものは、基本、無限にあっていいと私は思っている。
 創作の核心を突く考察も斜め上にかっ飛んだ解釈もあっていい。自分の思いを代弁するような考察に心を震わせるのもいいし、未知の知識に基づく解釈で目から鱗が落ちるのもいいものだ。
 それこそ『yoi』というアニメには、そもそも各方面のプロに拠る集合知の結実とでもいうべき側面がある。要するに、フィギュアスケート自体がスポーツとアートの両面を兼ね備えている総合芸術的な競技だというのも大きいのだろうけど、テーマ(物語)・音楽・振付(演出)・技術といった、その本当のプログラムを作るのと同じような工程をなぞり同じだけの手間をかけ工夫を凝らしてアニメもまた制作されているから、たった12話の表層のストーリーの背後には、作為不作為を問わず膨大な知識や情報が積み重なっているのである。「登場人物の個性は日常生活の中でよりもその人物が踊っている時に見受けられることが重要だった」というLe Mondeによるインタヴューでの山本監督の言は象徴的で、プログラムそれ自体の意味とそれを踊る人の本質や移り行く感情のダブル(どころかもっと多重)ミーニングとなっている劇中プログラムはもちろんのこと、それ以外の場面においても、フィギュアスケートのルールはもとより、文学に音楽にダンスに歴史に地理に料理に服飾に言語に映像文法にetc.と通じていて初めて可能となるような、多様な深読みを誘うよう『yoi』はできている。この作品が考察と解釈で魅力を増すことを、少なくとも私は否定できない。
 一方、ファンフィクションないし二次創作というのも、見ようによっては創作的アプローチ(原作補完・未来捏造・IF・パラレルワールド・他作品とのマッシュアップ etc.)をとった考察や解釈の表現形式のひとつだ。書き手は己の願望や美学に基づいて作品観やキャラクター観を昇華させる(逆の傾向が強ければ、作品(カノン)やキャラクターを利用して己の願望や美学を描こうとする)のだろうし、読み手は好みのファンフィクションを鏡として自分がカノンの何に惹かれているのかを再発見できたりもする(ともすると同時にもっと根源的な己の性癖まで露わになるのも一興…)のだ。

 ただ、考察も解釈も二次創作も無限であれと思うからこそ、ある観方・読み方・捉え方をしてこれが正解であるとされるだとか、ファンダムで広く共有されているヘッドカノンがカノン扱いされるだとか、そうした独善的とも言える気配が、それも第三者から出てくるとなると、何やら居心地は悪いものである。
 『yoi』の場合、これがまさに「海外での『yoi』受容がクィア的評価と切り離せなくなっている」という形で現れていて、尚且つ、Le Mondeの記事に露わなように、制作者はクィア的要素について否定こそしないもののそれを創作上の焦点とはしていない、とのもどかしいズレが生じているわけだ。
 ここに至って危惧されることと言えば、まずは、『yoi』が今まさに継続して制作されている現在進行形の物語であるからこそ、外野のあらぬ盛り上がりに今後の方向性が左右されはしないかということだろう。さらに、その外野のあらぬ盛り上がりというのが、単なるファンの願望というよりも、もっと大きな社会問題に抵触するようなクィアの視点から起こっているというのは、何か別種のプレッシャーになりはしないだろうか。今回のLe Mondeの記事でも、久保氏のインタヴュー内容を伝える記者の書きようからふと思い出したのは、ゲイであることを否定することもまた差別意識の表れ(キアヌ・リーヴスのコメントと言われているものに有名なのがあったはず*7)という話だった。『yoi』をLGBTフリーの文脈から好意的に受け止め喧伝したい人たちは得てして、制作者はもっと確信的なコメントを出すべきだ、そう見える表象を重ねておいて解釈はお任せだなど消極的だ無責任だ、くらい考えていそうではある。

 とはいえ、こんなのは所詮杞憂に過ぎないんだろう。各所で漏れ伺う山本監督の創作に対する信念、そして、久保氏と組んだ『yoi』における、クリエイターが本当に好きなものを作りたいように作ったとき特有の異様な熱量は、外野の声など、それがファンであろうと批評家であろうと社会活動家であろうと、ものともしなさそうだ。
 ちなみに、勇利とヴィクトルの関係について解釈を委ねるという制作者の判断は、ジェンダーやセクシュアリティの観点から見ても、結果的に引きの姿勢ではないはずである。というのも、そうした問題においては、カテゴライズを受けて立つことで闘い勝ち得る多様性というのがあるのも事実なら、ひとりとひとりの個別の関係性の在り方としてそれを考えたとき特に、むしろカテゴライズしないことでこそ得られる多様性、許される流動性というのもあってしかるべきなのだから。
 そして、『yoi』において制作者が描きたい命題「人は愛によって “ひとりで抱えるには大きすぎる夢じゃなきゃたどり着けない場所” ほど遠く(≒next level)まで行くことはできるのか」のためには、勇利とヴィクトルの関係が唯一無二(≒ソウルメイト)の愛であることがすべてなのであって、そこから先はみな各人のヘッドカノン、すなわち、その愛の名が恋愛だろうが友愛だろうが家族愛だろうが師弟愛だろうが関係ないし、ましてや、その愛が性別や性行為の有無や形而上形而下の別等々もってして定義される必要もなければ否定される謂れもない、というただそれだけのことではないのか*8

 最後にもうひとつ、蛇足とも思うけれど、クィア持ち出してファンフィクション持ち出して藪蛇を突いたからこそLe Mondeの記者に投げかけておきたいことがある。それは、ファンフィクションが描く勇利とヴィクトルの関係と現実の同性愛との深淵のごとき齟齬について。日本と欧米だと傾向は異なるのかもしれないが、ファンフィクションってそれこそなんでもありだから、カノン寄りで同性愛が問題にならない世界観を踏襲する作品がある一方、現実の同性愛を取り巻く問題を取り入れて展開させる作品もあれば、性別転換や新たな性の設定なんてパターンもあったりして、そんな中にはジェンダーやセクシュアリティに関する旧態依然とした固定観念に無意識で迎合的な作品も相当数あるのが現実だ。勇利とヴィクトルの関係を扱うファンフィクションの数で、勇利とヴィクトルというカップリングの受容は証明できても、勇利とヴィクトルという同性カップルの受容を証明できるかと言ったら、それほど単純な構図ではないということなのだ。



^ *1 「カノン(canon)」という言葉は、語源的には「規範、手本」を意味し、やがてキリスト教において「聖書正典」を指して用いられるようになった。そこから、いわゆる二次創作のような形で広がる作品世界の原点となる「原作」ないし「公式設定」のことを「カノン」と言うようになったらしい。対する「ヘッドカノン(head-canon)」というのは「(自分の)頭の中の原作/公式設定」つまりは「個々人の脳内設定」のこと。

^ *2 「クィア(queer)」という用語に関しては、例えば このあたりの解説 が比較的分かり易いように思う。ただしLe Mondeの記事に限って言うと、実はこの語、タイトルにしか用いられておらず、内容からみるに「LGBT」とりわけ「同性愛」とほぼ同義のつもりで使われているのではないかと推測される。

^ *3 Crunchyroll Anime Awards 2016 の "Most Heartwarming Scene" であったり、"Best Couple" であったり。ちなみに、『yoi』は他の各賞("Best Boy" "Best Animation" "Best Opening" "Best Ending")も総ナメ状態だった。

^ *4 この逸話は雑誌『Febri』のvol.40で語られていたエピソードと同じもののよう。abyssinさんによる指摘と引用

^ *5 事情は相当異なるものの、J.R.R.トールキンの『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作)のケースだった。当ブログ過去記事 参照。

^ *6 『マッドマックス:怒りのデス・ロード』に見られる「フェミニズム」に関してジョージ・ミラー監督自身が言及している インタヴューの一例

^ *7 キアヌ・リーヴスのこの件については こんな検証記事 があった。

^ *8 「ひとりで抱えるには大きすぎる夢じゃなきゃたどり着けない場所」に行くには、唯一無二のふたりきりの愛では足りない、ということもまた『yoi』は示唆している。最終滑走、勇利とヴィクトルの思いがそれこそ愛ゆえにどうしようもなく平行線のまま膠着してしまったとき、先へと進む突破口となったのがユーリ・プリセツキーの思いであったことは一目瞭然だ。『yoi』においては、そもそも勇利とヴィクトルの関係というのが、要所要所でユーリの存在を介さずには成立し得ないようにできていることを忘れてはならないだろう。さらに『yoi』は、勇利とヴィクトルにとどまらず、人と人をつなぐ種々様々な愛のありかたをあたかも闇鍋のごとく物語に放り込んでくるのだし、また、"閉じた"愛の限界を示して、一対一の愛でさえもっと広くとつながって循環するとき初めて人を次のステージに進ませうること、"開かれた"愛にこそ道は続いてゆくことを繰り返しほのめかしてもいるのだ。彼らの愛をどう解釈するにせよ、勇利とヴィクトルの関係性ばかり取り沙汰されるあまり、こうした点に目が向かなくなるとしたら、それはそれで本末転倒ではないのだろうか。

テーマ:ユーリ!!! on ICE - ジャンル:アニメ・コミック

動画「ジョン・ハウのデッサン・レッスン」試訳

丸面チカさん(@Chica_CHubb)のツイート↓で、パリで個展開催中のジョン・ハウ氏のインタヴューを紹介いただきましたので、拙訳をあげてみたいと思います。



Les conseils de John Howe, illustrateur du... 投稿者 le-point-pop

イラストレイターのジョン・ハウです。パリのアルリュディック画廊で展覧会をしています。

  「ジョン・ハウのデッサン・レッスン」

これは白い紙ではありません。これはちょっとした窓、三次元の無限の空間に向かって開かれた窓です。その中に、私はすでに存在してるものを見出そうと試みます。

イメージというのはどこかにあるものです。それは頭の中にあると常に考えられていますが、最終的にそれは鉛筆の先にあります。
まさにそれを探しに行かないといけないわけですが、そのためには、脳をシャットダウンして、ものごとがやって来るに任せなければなりません。
ただ、大切なのは対話、というか、自分自身と主題とデッサンという三者間の会話を続けるということです。

インスピレーションというのはまあ、砂漠を彷徨いカラスたちに養われる追放者みたいなものです。結局のところ、私たちもまたインスピレーションが訪れなければ飢えて死ぬのかもしれません。[*1]
でもインスピレーションは必ず訪れます。それは必ずしも自分自身から出て来るわけではないのですから。

なぜ日常的な題材を描かないのか?
私は、みなさんと同じように、自分もまた、日々の暮らしに、さしあたり生きてゆくということに、心理的にひどく翻弄されていると感じています。
だからこそかえって、私は自分のデッサンにおいてそうしたものを表現したいとは思わないのです。
"超現実主義(シュルレアリスム)"が"幻想もの(ファンタスティック)"から大変に有用な言葉を奪ってしまった、と言ってもいいでしょう。[*2]
幻想(ファンタスティック)というのは超現実的なのだと私は捉えています。少しばかり浮世離れした状況下において、抽象的であるだとか並置されているだとかコピーアンドペーストされているだとかいう意味ではなくて。
思うに、それはもっとも現実的なもののうちに探しに行くものです。
観念や欲望や恐怖を、また、それについてよく考えてからというもの人々に取り付いて離れない諸問題を探しに行こうとするということなのです。
詩的な真実というのがあって、それはシリアスな幻想(ファンタスティック)に関するすべてにおいて終始一貫しているのだと、私は思っています。
ユング哲学について論議するのも、ベオウルフと竜のデッサンを描くのも、まさしく同様にありうるところ、いずれも同じ問題に答えているわけなのです。私にとっては議論することよりも描くことの方がずっと喜ばしいというだけのことで。

緻密さと興味関心を、あるいは、それらを掘り下げる好機を、できることすべての中に探さねばならないのだと思います。
デッサンというのは要するに非線形の哲学でしかありません。[*3]
「うまく描く」なんてことをすべきではないのです。うまく描くことは何の役にも立ちません。もし仮にそれが正確無比であれば最高ですが、もしその中身が空っぽだったらそれはもうほとんど最悪です。
だから結局、デッサンのためには、哲学に弱いところがあるよりもデッサンに弱いところがあった方がよいのです。


*1 「インスピレーション」と「カラス」と「我々」の関係にちょっと混乱…。
 補足としては、元記事にこんなくだりも。

 ハウ氏曰く「カラスたちは変わっており、私たちによく似ています。」「彼らは謎めいており、明らかに知性が高く、私たちの理解の及ばない社会生活を送っていて、たいして好かれはしません。そんなわけで私は彼らを愛しているのです!」
 今回の個展に出されているデッサンは、ホビットやエルフといった中つ国のモチーフとはまた別のタイプのもの「不可思議なカラスのヒューマノイド」である。
 さらに「インスピレーション」についてハウ氏曰く「インスピレーションは経験から生まれます。というのも、それがどんなものであれ、経験は私たちの心に残り、自在に使えるツールに加わることになるのですから。」


*2 芸術ジャンルとしての「超現実主義(シュルレアリスム:surréalisme)」「幻想もの(ファンタスティック:fantastique)」を対置させていると思われる。
 以下、若干の雑考察。
 仏語で「超現実的な(surréel)」と言ったら、真っ先に連想されるのは、夢や無意識の解釈から導き出される芸術運動としての「シュルレアリスム」であるということをまず指摘しておく。ここに属すると目されるアーティストとしては、作家ならブルトン、画家ならダリ、エルンスト、マグリット、この辺りを思い浮かべるといいだろう。
 その一方、「幻想もの」というのは一般に「超自然的な(surnaturel)」テーマの喚起に特徴付けられるとされる。絵画として考える際には、ジャンルというより描かれるテーマによる分類と見た方がよさそうで、ボスを先駆者と仰ぎ、ロマン主義のゴヤやブレイク、象徴主義のモローといった画家から、シュルレアリスム絵画までをも含めた広範なテーマ概念と捉えられる。文学のジャンルとしては「ゴシック小説」(ex. シェリー『フランケンシュタイン』)に起源を持ち、どちらかというとSFやホラー寄りとも目され、担い手としてはノディエやゴーチエ、ワイルドやブラムストーカーらの名前を上げることができる[トドロフ先生曰く「幻想とは、自然の法則しか識らぬ者が、超自然的様相をもったできごとに直面して感じるためらいのことなのである」のだが、ここで注意しないといけないのは「幻想もの(fantastique)」「ファンタジー(fantasy)」という点だ(そもそも仏語には英語の「fantasy」に該当する単語が存在しない)。つまり、ハウ氏が長らくそのヴィジュアル化を手がけてきたトールキンの作品は本来「幻想もの」に数えられはしないのである。
 以上を踏まえて、ハウ氏は絵を描く人なので「幻想もの(ファンタスティック:fantastique)」という言葉もおそらくざっくりとした意味合いで用いていると思われる。もちろん、彼の絵自体が「幻想もの」の絵画の系譜につらなるにふさわしいのは確かだ。ただ、ハウ氏は少なくとも自分の作品について語るに際して、従来の「幻想もの」の概念 —絵画テーマとしてであれ文学ジャンルとしてであれ— では物足りない何か、しっくりこない何かを覚えてしまうのではないだろうか。その概念がトールキン的なハイ・ファンタジーの世界観を含まないという事実もまた、そうした違和感を助長していそうである。そんななかで、自分の作品は「現実のメタ・データ」であるという直感が、芸術分野においてともするとシュルレアリスムのコンテクストに特化されて認識されがちな「超現実(surréalité)」という概念を、よりその字義通りの意味に立ち返って改めて定義することを、ハウ氏に思い付かせているのではないだろうか。

*3 「非線形の哲学」については、元記事にこんなくだりも。

 ハウ氏曰く(デッサンを通してだと)言葉を発することなくたくさんのことが言えるのです。それは別の方法で表現するすべを知らない人々の言語でもあります。書くことと描くことを分かつ線は人為的なものです。ギリシャの壺を眺めることとホメロスを読むことのように、同じ物語が語られるというわけなのです。あらゆるレベルにおいて、読むことに重きをおかねばならないと思います。」



☆ この動画の元記事(フランス語)はこちら→ La leçon de dessin de John Howe, l'illustrateur de Tolkien

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Mon signet pour la musique (おんがくのしおり) [2]

【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」

 なにも記憶喪失にならずとも自問することはあるはずだ —「わたしはだれか?」
例えば、アイデンティティを四畳半的に見失うときにも。例えば、自我について壮大な思弁に耽ろうとするときにも。
 今回取り上げるのは、そんな問いにまったく異なる向き合い方をした、ジャンルも対照的な歌2つ。

 ・ Scylla « Qui suis-je ? »
 ・ KYO « Qui je suis »
注)疑問文として正式な語順は"Qui suis-je?"という主語と動詞を倒置させた形だが、話し言葉では"Qui je suis?"のような倒置しないような言い方も許容される。


 前者は、ベルギーはブリュッセルを拠点に活動するラッパー Scylla(スキュラ) のセカンドアルバム Masque de chair (2017) 収録。
 フランス語ラップというのは実はなかなか魅力的な穴場ジャンルで、ただ喋ってるだけでも音楽的な饒舌性に富んでいるフランス語の言語特性は意外や意外ラップ向きなのだ。個人的には、'90-'00年代のラップコアや、ポエトリーリーディングにより近いスラム(Slam)なんかの方が、最近ヒットチャートを占めるギャングスタ系のラップより好みなんだけれど。
 それはさておき、Scylla のことは音楽配信サービスのバイラルチャートで偶然知った。スラムール(slameur)の Grand Corps Malade(グラン・コール・マラッド) を彷彿とさせるような淀みない言葉運び —歌うでも語るでもないそういうのを"フリースタイル"というらしい— と、何より"voix d'ogre(鬼の声)"とも"voix rauque(低く響くしゃがれ声)"とも形容される独特の声がもたらしたインパクトは絶大。加えて、クラシックから民族音楽から、ちょっと初期のLinkin Parkを思い起こさせる陰鬱なラウドロック的要素までをも自由自在にサンプリングして、ときにはメロディラインを歌い上げもするという引き出しの多さに胸が躍ったし、さらに、このジャンルにしては比較的平易で標準的な言葉遣いで綴られた歌詞が、非常に個人的で内省的であると同時に、確かに私にも繋がっていると感じられる普遍的な深淵に踏み込んでは厳粛な希望に似た何かさえ啓示してくるような代物ときては、もう惹かれるのを止められなかった。
 ちなみにベルギー、このフランスのすぐお隣りのフランス語圏(但し南半分と首都圏のみ)は、フランス語ラップのパイオニアともみなせるだろう Jacques Brel(ジャック・ブレル) を、今世紀のフランス語ラップ界最大のスター Stromae(ストロマエ) を排出した国だったりするということを付しておきたい。

 後者は、フランスの4人組ロックバンド KYO のサードアルバム 300 lésions (2004) 収録。
 ちなみにこのバンド名、現地ではよく「キヨ」と発音されてるけど、メンバーが大好きな日本のゲームのキャラクター名「京」と、音楽に関する漢字「響」の音読みを掛けたらしいので、ほんとは「キョウ」が正しい。
 KYO は2000年のデビュー後、セカンドアルバム Le Chemin (2003) の大ヒットで一躍スターダムに躍り出た。当時、メンバー全員が20代前半と若く、とりわけティーン層から絶大な支持を受けていたことから、ミーハー受けするアイドル然とした扱いをされていたのは否めない。それでも、'03年から'05年末の活動休止までのたった3年で、十数年を経た今なお記憶に残る褪せない名曲をいくつも世に送り出したのだから、それは間違いなく密度の濃い実績と正当に評価されるべきだろう。
 さらには、ここが彼らの面白いところなのだけれども、デビュー以来ブレイク時含めそれこそ活動を再開させた現在に至るまで一貫して、彼らは独特の手癖(フレーズ・展開・音構築・歌唱 etc.)を手放すことなく、むしろ"KYO節"とでも呼ぶべきものを磨き上げ極めて昇華させるばかりなのだ。メロディアスで、物憂げで、切実で、"君"への熱烈さは祈りにも睦言にも、そして少しの諦観とともに無垢で透徹した世界の理(ことわり)に焦がれる"僕ら"…。
 熱狂の時から約10年を経て生み出された4枚目のアルバム L'équilibre (2014)を聴けば、変わらぬ手癖を懐かしみ、活動休止中の別プロジェクトから得たであろう血肉に気付き、重ねた歳の分を確かに反映した骨を噛み締めることができたのだ。

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テーマ:フランス語圏の音楽 - ジャンル:音楽

[La traduction des paroles] KYO "Qui je suis"

KYO « Qui je suis » (300 lésions, 2004)



※ フラ語歌詞はこちらを参照→ http://paroles2chansons.lemonde.fr/paroles-kyo/paroles-qui-je-suis.html
この歌を取り上げたエッセイはこちら→ Mon signet pour la musique (おんがくのしおり) [2] 【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」


「僕は誰だ」

無数の腕が伸ばされて
僕の到着は大騒ぎを巻き起こす
神さま、僕は誰なんだ?
僕の孤独はそのままに
移動手段が僕の家
僕が通れば、人は誓う、人は叫ぶ

別ものの人生の中で僕は延々と道に迷って
もはや自分が誰なのか分からない

僕は少しおびえて、祈る
以前、僕の街で僕は人に好かれていた
今や、僕の国で僕は人に価値を決められてしまう

建物の一番高いところ
作りものの光の下で輝いて
僕にはもう自分の道が見えない
僕には近頃たくさんの友達がいるけれど
僕が成長してゆくのを見ていた人たちはどこ?
彼らが立ち去っていくのを僕は見た

自分の未来の中で僕は延々と道に迷って
もはや自分が誰なのか分からない

僕は少しおびえて、祈る
以前、僕の街で僕は人に好かれていた
今や、僕の国で僕は人に価値を決められてしまう
僕は誰なんだ?

僕が外に出られるのは夜にだけ
今日、僕は生きるのが怖くて
明日、僕は僕が忘れられるんじゃないかと怖がるんだろう
仕方ないや

僕はもはや自分が誰なのか分からない

僕は少しおびえて、祈る
以前、僕の街で僕は人に好かれていた
今や、僕の国で僕は人に価値を決められてしまう
僕は誰なんだ?

僕が外に出られるのは夜にだけ
今日、僕は生きるのが怖くて
明日、僕は僕が忘れられるんじゃないかと怖がるんだろう
仕方ないや



テーマ:洋楽歌詞対訳 - ジャンル:音楽

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Kyoko

Author:Kyoko
本体はTokyoに、意識の3割程度はParisに、魂はMiddle-earthに。
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