« Et je sentis que tout l'univers venait de me faire un clin d'œil. »
 「全宇宙が親しげにぼくをこづいたような気がした」
              --- Le Quatuor d'Alexandrie, Lawrence G. Durrell

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束(トールキン)関連記事
「トールキン、軋轢の指輪 (Tolkien, l'anneau de la discorde)」試訳 [1] [2] [3]
映画『The Hobbit』がなんだかんだ不安でもあるいくつかの理由を考えてみた [其の1] [其の2] [其の3]

Mon signet pour la musique (おんがくのしおり)
[1]【お題】トラディショナルソングには回帰性がある。
[2]【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」


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L'atelier de la reine Spica
"スピカ女王"と2人で活動中の創作ユニット"ラトリエ・ドゥ・ラ・レーヌ・スピカ"の作品リスト。
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動画「ジョン・ハウのデッサン・レッスン」試訳

丸面チカさん(@Chica_CHubb)のツイート↓で、パリで個展開催中のジョン・ハウ氏のインタヴューを紹介いただきましたので、拙訳をあげてみたいと思います。



Les conseils de John Howe, illustrateur du... 投稿者 le-point-pop

イラストレイターのジョン・ハウです。パリのアルリュディック画廊で展覧会をしています。

  「ジョン・ハウのデッサン・レッスン」

これは白い紙ではありません。これはちょっとした窓、三次元の無限の空間に向かって開かれた窓です。その中に、私はすでに存在してるものを見出そうと試みます。

イメージというのはどこかにあるものです。それは頭の中にあると常に考えられていますが、最終的にそれは鉛筆の先にあります。
まさにそれを探しに行かないといけないわけですが、そのためには、脳をシャットダウンして、ものごとがやって来るに任せなければなりません。
ただ、大切なのは対話、というか、自分自身と主題とデッサンという三者間の会話を続けるということです。

インスピレーションというのはまあ、砂漠を彷徨いカラスたちに養われる追放者みたいなものです。結局のところ、私たちもまたインスピレーションが訪れなければ飢えて死ぬのかもしれません。[*1]
でもインスピレーションは必ず訪れます。それは必ずしも自分自身から出て来るわけではないのですから。

なぜ日常的な題材を描かないのか?
私は、みなさんと同じように、自分もまた、日々の暮らしに、さしあたり生きてゆくということに、心理的にひどく翻弄されていると感じています。
だからこそかえって、私は自分のデッサンにおいてそうしたものを表現したいとは思わないのです。
"超現実主義(シュルレアリスム)"が"幻想もの(ファンタスティック)"から大変に有用な言葉を奪ってしまった、と言ってもいいでしょう。[*2]
幻想(ファンタスティック)というのは超現実的なのだと私は捉えています。少しばかり浮世離れした状況下において、抽象的であるだとか並置されているだとかコピーアンドペーストされているだとかいう意味ではなくて。
思うに、それはもっとも現実的なもののうちに探しに行くものです。
観念や欲望や恐怖を、また、それについてよく考えてからというもの人々に取り付いて離れない諸問題を探しに行こうとするということなのです。
詩的な真実というのがあって、それはシリアスな幻想(ファンタスティック)に関するすべてにおいて終始一貫しているのだと、私は思っています。
ユング哲学について論議するのも、ベオウルフと竜のデッサンを描くのも、まさしく同様にありうるところ、いずれも同じ問題に答えているわけなのです。私にとっては議論することよりも描くことの方がずっと喜ばしいというだけのことで。

緻密さと興味関心を、あるいは、それらを掘り下げる好機を、できることすべての中に探さねばならないのだと思います。
デッサンというのは要するに非線形の哲学でしかありません。[*3]
「うまく描く」なんてことをすべきではないのです。うまく描くことは何の役にも立ちません。もし仮にそれが正確無比であれば最高ですが、もしその中身が空っぽだったらそれはもうほとんど最悪です。
だから結局、デッサンのためには、哲学に弱いところがあるよりもデッサンに弱いところがあった方がよいのです。


*1 「インスピレーション」と「カラス」と「我々」の関係にちょっと混乱…。
 補足としては、元記事にこんなくだりも。

 ハウ氏曰く「カラスたちは変わっており、私たちによく似ています。」「彼らは謎めいており、明らかに知性が高く、私たちの理解の及ばない社会生活を送っていて、たいして好かれはしません。そんなわけで私は彼らを愛しているのです!」
 今回の個展に出されているデッサンは、ホビットやエルフといった中つ国のモチーフとはまた別のタイプのもの「不可思議なカラスのヒューマノイド」である。
 さらに「インスピレーション」についてハウ氏曰く「インスピレーションは経験から生まれます。というのも、それがどんなものであれ、経験は私たちの心に残り、自在に使えるツールに加わることになるのですから。」


*2 芸術ジャンルとしての「超現実主義(シュルレアリスム:surréalisme)」「幻想もの(ファンタスティック:fantastique)」を対置させていると思われる。
 以下、若干の雑考察。
 仏語で「超現実的な(surréel)」と言ったら、真っ先に連想されるのは、夢や無意識の解釈から導き出される芸術運動としての「シュルレアリスム」であるということをまず指摘しておく。ここに属すると目されるアーティストとしては、作家ならブルトン、画家ならダリ、エルンスト、マグリット、この辺りを思い浮かべるといいだろう。
 その一方、「幻想もの」というのは一般に「超自然的な(surnaturel)」テーマの喚起に特徴付けられるとされる。絵画として考える際には、ジャンルというより描かれるテーマによる分類と見た方がよさそうで、ボスを先駆者と仰ぎ、ロマン主義のゴヤやブレイク、象徴主義のモローといった画家から、シュルレアリスム絵画までをも含めた広範なテーマ概念と捉えられる。文学のジャンルとしては「ゴシック小説」(ex. シェリー『フランケンシュタイン』)に起源を持ち、どちらかというとSFやホラー寄りとも目され、担い手としてはノディエやゴーチエ、ワイルドやブラムストーカーらの名前を上げることができる[トドロフ先生曰く「幻想とは、自然の法則しか識らぬ者が、超自然的様相をもったできごとに直面して感じるためらいのことなのである」のだが、ここで注意しないといけないのは「幻想もの(fantastique)」「ファンタジー(fantasy)」という点だ(そもそも仏語には英語の「fantasy」に該当する単語が存在しない)。つまり、ハウ氏が長らくそのヴィジュアル化を手がけてきたトールキンの作品は本来「幻想もの」に数えられはしないのである。
 以上を踏まえて、ハウ氏は絵を描く人なので「幻想もの(ファンタスティック:fantastique)」という言葉もおそらくざっくりとした意味合いで用いていると思われる。もちろん、彼の絵自体が「幻想もの」の絵画の系譜につらなるにふさわしいのは確かだ。ただ、ハウ氏は少なくとも自分の作品について語るに際して、従来の「幻想もの」の概念 —絵画テーマとしてであれ文学ジャンルとしてであれ— では物足りない何か、しっくりこない何かを覚えてしまうのではないだろうか。その概念がトールキン的なハイ・ファンタジーの世界観を含まないという事実もまた、そうした違和感を助長していそうである。そんななかで、自分の作品は「現実のメタ・データ」であるという直感が、芸術分野においてともするとシュルレアリスムのコンテクストに特化されて認識されがちな「超現実(surréalité)」という概念を、よりその字義通りの意味に立ち返って改めて定義することを、ハウ氏に思い付かせているのではないだろうか。

*3 「非線形の哲学」については、元記事にこんなくだりも。

 ハウ氏曰く(デッサンを通してだと)言葉を発することなくたくさんのことが言えるのです。それは別の方法で表現するすべを知らない人々の言語でもあります。書くことと描くことを分かつ線は人為的なものです。ギリシャの壺を眺めることとホメロスを読むことのように、同じ物語が語られるというわけなのです。あらゆるレベルにおいて、読むことに重きをおかねばならないと思います。」



☆ この動画の元記事(フランス語)はこちら→ La leçon de dessin de John Howe, l'illustrateur de Tolkien

テーマ:展示会、イベントの情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

Mon signet pour la musique (おんがくのしおり) [2]

【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」

 なにも記憶喪失にならずとも自問することはあるはずだ —「わたしはだれか?」
例えば、アイデンティティを四畳半的に見失うときにも。例えば、自我について壮大な思弁に耽ろうとするときにも。
 今回取り上げるのは、そんな問いにまったく異なる向き合い方をした、ジャンルも対照的な歌2つ。

 ・ Scylla « Qui suis-je ? »
 ・ KYO « Qui je suis »
注)疑問文として正式な語順は"Qui suis-je?"という主語と動詞を倒置させた形だが、話し言葉では"Qui je suis?"のような倒置しないような言い方も許容される。


 前者は、ベルギーはブリュッセルを拠点に活動するラッパー Scylla(スキュラ) のセカンドアルバム Masque de chair (2017) 収録。
 フランス語ラップというのは実はなかなか魅力的な穴場ジャンルで、ただ喋ってるだけでも音楽的な饒舌性に富んでいるフランス語の言語特性は意外や意外ラップ向きなのだ。個人的には、'90-'00年代のラップコアや、ポエトリーリーディングにより近いスラム(Slam)なんかの方が、最近ヒットチャートを占めるギャングスタ系のラップより好みなんだけれど。
 それはさておき、Scylla のことは音楽配信サービスのバイラルチャートで偶然知った。スラムール(slameur)の Grand Corps Malade(グラン・コール・マラッド) を彷彿とさせるような淀みない言葉運び —歌うでも語るでもないそういうのを"フリースタイル"というらしい— と、何より"voix d'ogre(鬼の声)"とも"voix rauque(低く響くしゃがれ声)"とも形容される独特の声がもたらしたインパクトは絶大。加えて、クラシックから民族音楽から、ちょっと初期のLinkin Parkを思い起こさせる陰鬱なラウドロック的要素までをも自由自在にサンプリングして、ときにはメロディラインを歌い上げもするという引き出しの多さに胸が躍ったし、さらに、このジャンルにしては比較的平易で標準的な言葉遣いで綴られた歌詞が、非常に個人的で内省的であると同時に、確かに私にも繋がっていると感じられる普遍的な深淵に踏み込んでは厳粛な希望に似た何かさえ啓示してくるような代物ときては、もう惹かれるのを止められなかった。
 ちなみにベルギー、このフランスのすぐお隣りのフランス語圏(但し南半分と首都圏のみ)は、フランス語ラップのパイオニアともみなせるだろう Jacques Brel(ジャック・ブレル) を、今世紀のフランス語ラップ界最大のスター Stromae(ストロマエ) を排出した国だったりするということを付しておきたい。

 後者は、フランスの4人組ロックバンド KYO のサードアルバム 300 lésions (2004) 収録。
 ちなみにこのバンド名、現地ではよく「キヨ」と発音されてるけど、メンバーが大好きな日本のゲームのキャラクター名「京」と、音楽に関する漢字「響」の音読みを掛けたらしいので、ほんとは「キョウ」が正しい。
 KYO は2000年のデビュー後、セカンドアルバム Le Chemin (2003) の大ヒットで一躍スターダムに躍り出た。当時、メンバー全員が20代前半と若く、とりわけティーン層から絶大な支持を受けていたことから、ミーハー受けするアイドル然とした扱いをされていたのは否めない。それでも、'03年から'05年末の活動休止までのたった3年で、十数年を経た今なお記憶に残る褪せない名曲をいくつも世に送り出したのだから、それは間違いなく密度の濃い実績と正当に評価されるべきだろう。
 さらには、ここが彼らの面白いところなのだけれども、デビュー以来ブレイク時含めそれこそ活動を再開させた現在に至るまで一貫して、彼らは独特の手癖(フレーズ・展開・音構築・歌唱 etc.)を手放すことなく、むしろ"KYO節"とでも呼ぶべきものを磨き上げ極めて昇華させるばかりなのだ。メロディアスで、物憂げで、切実で、"君"への熱烈さは祈りにも睦言にも、そして少しの諦観とともに無垢で透徹した世界の理(ことわり)に焦がれる"僕ら"…。
 熱狂の時から約10年を経て生み出された4枚目のアルバム L'équilibre (2014)を聴けば、変わらぬ手癖を懐かしみ、活動休止中の別プロジェクトから得たであろう血肉に気付き、重ねた歳の分を確かに反映した骨を噛み締めることができたのだ。

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テーマ:フランス語圏の音楽 - ジャンル:音楽

[La traduction des paroles] KYO "Qui je suis"

KYO « Qui je suis » (300 lésions, 2004)



※ フラ語歌詞はこちらを参照→ http://paroles2chansons.lemonde.fr/paroles-kyo/paroles-qui-je-suis.html
この歌を取り上げたエッセイはこちら→ Mon signet pour la musique (おんがくのしおり) [2] 【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」


「僕は誰だ」

無数の腕が伸ばされて
僕の到着は大騒ぎを巻き起こす
神さま、僕は誰なんだ?
僕の孤独はそのままに
移動手段が僕の家
僕が通れば、人は誓う、人は叫ぶ

別ものの人生の中で僕は延々と道に迷って
もはや自分が誰なのか分からない

僕は少しおびえて、祈る
以前、僕の街で僕は人に好かれていた
今や、僕の国で僕は人に価値を決められてしまう

建物の一番高いところ
作りものの光の下で輝いて
僕にはもう自分の道が見えない
僕には近頃たくさんの友達がいるけれど
僕が成長してゆくのを見ていた人たちはどこ?
彼らが立ち去っていくのを僕は見た

自分の未来の中で僕は延々と道に迷って
もはや自分が誰なのか分からない

僕は少しおびえて、祈る
以前、僕の街で僕は人に好かれていた
今や、僕の国で僕は人に価値を決められてしまう
僕は誰なんだ?

僕が外に出られるのは夜にだけ
今日、僕は生きるのが怖くて
明日、僕は僕が忘れられるんじゃないかと怖がるんだろう
仕方ないや

僕はもはや自分が誰なのか分からない

僕は少しおびえて、祈る
以前、僕の街で僕は人に好かれていた
今や、僕の国で僕は人に価値を決められてしまう
僕は誰なんだ?

僕が外に出られるのは夜にだけ
今日、僕は生きるのが怖くて
明日、僕は僕が忘れられるんじゃないかと怖がるんだろう
仕方ないや



テーマ:洋楽歌詞対訳 - ジャンル:音楽

[La traduction des paroles] Scylla "Enchanté"

Scylla « Enchanté » (Masque de chair, 2017)



※ フラ語歌詞はこちらを参照→ http://paroles2chansons.lemonde.fr/paroles-scylla/paroles-enchante.html
この歌を取り上げたエッセイはこちら→ Mon signet pour la musique (おんがくのしおり) [2] 【お題】同題異曲「わたしはだれか?(Qui suis-je?)」


「はじめまして」

俺に「はじめまして」なんて言うな!
拒んだって無駄だ。
俺たちはおそらくこれまで一度も会ったことなんてない、でも俺たちは繋がっている。
そうだ、繋がっているんだ。俺はお前を覚えている。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちはすでにどこかですれ違ったことがある。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちは繋がっている。
もしお前が俺を信じないというなら、近寄って俺の目の奥をじっと見つめてくれ。
見えるだろう、お前の一部がそこできらめくのが。
なぜなのか説明できない、それでも俺たちは繋がっている。

なぜなのか説明できない、でも知っているんだ、ほら!
だって、お前の目の奥で、同じ炎が輝いているのが見えるんだ。
俺には分からない、俺の考えが十分に納得のいくものとお前に映るかどうか。
でも俺たちの間には、古の霊魂たちを結びつけていたあの縁(えにし)のようなものがある。
それはまるで、同じ星が俺たちを常に導いてきたかのようだ。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちは離れ離れになったことだって一度もない。
俺たちはすれ違ったことがある、この肉体がそこにはなかったとしても。
ともに、俺たちは生きて、俺たちは死んだ、何度も何度も。
何度も何度も倒れ、何度も何度も立ち上がった。
自らの灰の中から蘇るのを俺たちは互いに見てきた。
覚えているか? ふたりのうちどちらかが落ちるに違いないとなったとき、
もうひとりは真っ先に天使の跳躍*を決めたものだったというのを。
他人の言うことなんて聞きたくない。
俺は自分の殻に閉じこもったまま、わざと頭を空(から)にする。
俺は言う、別の人生で俺たちは出会ったことがあるのだと。
俺はそう信じたい、だってその考えこそまさしく俺好みなんだ!

俺に「はじめまして」なんて言うな!
拒んだって無駄だ。
俺たちはおそらくこれまで一度も会ったことなんてない、でも俺たちは繋がっている。
そうだ、繋がっているんだ。俺はお前を覚えている。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちはすでにどこかですれ違ったことがある。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちは繋がっている。
もしお前が俺を信じないというなら、近寄って俺の目の奥をじっと見つめてくれ。
見えるだろう、お前の一部がそこできらめくのが。
なぜなのか説明できない、それでも俺たちは繋がっている。

なぜなのか説明できない、でも知っているんだ、それだけだ!
俺には分かる、そういうことなんだ、話すには及ばない。
俺にはよく分かっている、お前の目の中に、俺たちの魂の気配のようなものがあるのを。
心配いらない、約束する、俺たちはまもなくその状態へ戻されるだろう。
「はじめまして」と繰り返し言ってくるなんて侮辱を間違ってもするんじゃない。
いったいなぜ物事とは常に理路整然としているべきなのか?
お前に言おう、お前は俺がおそらく一度も会ったことのない人々の、しかしそれでも常に俺に欠けている人々のうちのひとりなのだと。
そうだ、俺たちは繋がっている、きっとずっと昔から。
俺たちの間では年単位なんかで数えない、それどころか世紀単位で数えている。
いったいなぜお前は笑うのか? 俺を理解する者は俺に従え。
俺は言う、この出会いが父祖たちを奮い立たせるのだと。
他人の言うことなんて聞きたくない。
俺は自分の殻に閉じこもったまま、わざと頭を空(から)にする。
俺は言う、別の人生で俺たちは出会ったことがあるのだと。
俺はそう信じたい、だってその考えこそまさしく俺好みなんだ!

俺に「はじめまして」なんて言うな!
拒んだって無駄だ。
俺たちはおそらくこれまで一度も会ったことなんてない、でも俺たちは繋がっている。
そうだ、繋がっているんだ。俺はお前を覚えている。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちはすでにどこかですれ違ったことがある。
俺たちはおそらく一度も会ったことなんてない、でも俺たちは繋がっている。
もしお前が俺を信じないというなら、近寄って俺の目の奥をじっと見つめてくれ。
見えるだろう、お前の一部がそこできらめくのが。
なぜなのか説明できない、それでも俺たちは繋がっている。

ああそうだ、俺は言う、別の人生で俺たちは出会ったことがあるのだと。
俺はそう信じたい、だってその考えこそまさしく俺好みなんだ!



[※ 注釈書き込み可歌詞サイト Genius も適宜参考にしてます。https://genius.com/11419452

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本体はTokyoに、意識の3割程度はParisに、魂はMiddle-earthに。
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